近代日本の礎 明治維新の真実を反薩長派の著者が語り尽くす
今回レビューするのは、半藤一利さんの「幕末史」だ。1930年生まれで今年(2020年)90歳となった半藤さんは、ご自身が生きた昭和の時代を中心に数多くの歴史物を執筆されている。代表作として「日本のいちばん長い日 運命の八月十五日」「ノモンハンの夏」「昭和史」などがある。初めて私が読んだのは「昭和史」で、読者に語りかけるような書き口(講義でお話になった内容を編集したものなので)で読みやすく分かりやすく、一言で言えば「ハマって」しまった。
「幕末史」も同じく講義でのお話を編集されたもので、大変読みやすいものになっている。しかし、内容に関してはものすごく充実している。日本という国がそのありようを大きく変えた幕末に、いったい何が起きたのか?誰のどういう想い、思惑、狙いがあって、どんな出会いが国のその後に影響を及ぼしたのか?これらのことが極めて丁寧に描かれている。大量の史料に基づき、それと同時に著者の独自の解釈(と好き嫌い)が入り乱れながら展開するドキュメンタリーは、幕末・明治を生きた先人たちが作り上げた日本に生きる私たちにとって必読の一冊と言えるのではないだろうか。
私の解釈では、この本の良いところは筆者の考えや好き嫌いが隠すことなく堂々と披露されていることだと思う。はじめの章で筆者自身が述べている。
これから私が延々と皆さんに語ることになります幕末から明治十一年までの歴史は、「反薩長史観」となることは請合いであります。…(略)…「西郷は毛沢東と同じ」「龍馬には独創的なものはない」という私の見方がいずれ出てきましょうが、どうぞびっくりせずに聴いていただけたらと思います。
幕末史 /半藤一利 はじめの章「御瓦解」と「御一新」
また読んでいると、「勝海舟のことが好きなんだな」とか「新撰組は別に大したことはしていないと考えているのかな」とか半藤さんの考え(だと私が勝手に感じたもの)が滲み出ていることに気づく。幕末といえば反射的に新撰組を思い浮かべる人も少なくないと思うが、この本での新撰組はといえばわずか数行、池田屋事件のことに触れるところぐらいしか登場しない。
ところで筆者の言う「反薩長史観」は、言うまでもなく筆者の好き嫌いではない。公正に史料を分析した結果「世に罷り通っている薩長史観は決して真実ではない」という「評価」に辿り着いたと言うべきだろう。本書の主題は、薩長史観に異議をさし挟みたいということらしい。そういうことであれば「開明的で柔軟な思考ができる薩長の立派な人たちが、古臭い幕府を倒して明治時代を切り開いた」と見事に誤解していた私のような人間には、十分にその目標を達したと言えるだろう。本書は私と同じような人にこそ、ぜひ御一読いただきたい。幕末に起きた真実に、そして日本の未来を左右する変化の時を必死に駆け抜けた先人たちの生き様に、心引き寄せられること間違いなしと思うのである。
以下、私が個人的にこの本から受け取ったエッセンスについて記したいと思う。ほとんど自分のためなので、長いし、興味のある方だけご覧いただければ。
ねじ曲げられた歴史
私は子供の頃から完全なる理系人間で、社会科というのはひたすら苦手だった。歴史ももちろん苦手であったのだが、皮肉にも暗記すること自体は得意で、実際暗記することがある程度試験の点数に結びついてしまうため、年号・人名や出来事を暗記するだけに終始していた。歴史本来の面白さをみじんも感じないまま10代の学生時代を通り過ぎてしまった。しかし、大人になると不思議なことに歴史や政治経済といったものに俄然興味が湧いてきた。きっとそういう大人は数多くいると思うが、そんな人たちに半藤さんの著作はとてもお勧めできる。
そんな中でも本作「幕末史」はきっと多くの人にとって価値ある発見がある作品である。なぜなら、近代日本のベースを作り上げた幕末・明治維新(半藤さんは維新という言葉がお嫌いなようだが、これも本著を読めば納得)という出来事をちゃんと理解している人は少ないと思うからだ。(自分の歴史理解の甘さを肯定したいだけかもしれないが)きっと私と同じく下記のような誤解をしている人も多いのではないだろうか?
幕府「開国だー!」(あれ?鎖国って言ってたんじゃ?)
上のように何となく理解していた私だが、自分の中でもなんだかモヤモヤした、よく分からない感があった。最もダメな点は、尊王攘夷(薩長)VS 開国(幕府)という風に思想をバッサリ2つに分けて考えていた点だ。こう考えてしまうと、「あれ?攘夷運動していたはずの薩長が新しく作った明治政府は、結局外国との付き合いを始めたんだよね?」だとか「幕府は鎖国していたんじゃないんだっけ?」みたいな疑問が生まれてしまう。「尊王攘夷派 対 〜」みたいにしてしまうのが誤解の元だと思われる。本作を読み終えてこそ分かったことだが、大胆に言ってしまえば、この時代の人間は多かれ少なかれみんな尊王攘夷思想を持ってる訳だ。この時代に本当の意味での開国派という人たちはほんの一握りで、佐久間象山や勝海舟ぐらいだったのではないだろうか。開国した方がいいんじゃないか?という人たちはもちろんいたが、基本的には改めて攘夷するために国を強くするための開国という考え方だった。幕府にしても外国に迫られて仕方なく開国するしかなかった訳だし。(攘夷したい人たち)対(開国したい人たち)の戦いが幕末の本質だと考えてしまうと訳が分からなくなる。
また、私のなかでは薩長側が立派な革命者のような感覚になっていたことも注目したい点だ。後でまた触れたいが、本作を読めば決して薩長は正義の革命者ではなかったことが分かる。
自分を正当化したい訳ではないが、普通になんとなく歴史の授業を受けていたら私と同じような誤解をする人は多いと思われる。ただただ私がちゃんと時代背景みたいなものを読み解かなかっただけという気もするが。。。いやでも、官軍薩長が幕府やその他賊軍を打ち倒して革命を果たしたという「薩長史観が世に罷り通っている」と半藤さんが言っているからには、やはり勝った薩長に都合の良いように歴史がねじ曲げられて教育されているということなのだろうか。
いったい本当は何が起きていた?
上の述べたように幕末の本質は、思想上の対立ではなかったと思われる。もちろん対立はあっただろうが、幕府の中でも意見は割れるし、方針はコロコロ変わるし、長州藩の中でも同じだった。ただ、ベースとしてはほとんどの人たちの中に多かれ少なかれ尊王攘夷思想があった。それを踏まえた上で、自分なりに幕末の要点をまとめてみたい。
幕府としては現政権運営者として現実的な判断も必要だった。そのため、外国が軍艦をつけてきて大砲を撃ってみたり、開国しないなら来年攻めにくるぞと脅されたり、実際アジア諸国が西欧列強国に次々と植民地化されている中で、開国せざるを得なかったんだと思われる。
しかし民衆としては、開国によって日本経済ががたがたと不安定になり経済的に被害を受け始めると、反幕府思想とともに攘夷運動が広がり始める。そして、孝明天皇が(半藤さん曰く)大の外国人嫌いで攘夷の権化であったため、これに尊皇思想が結びついていった。
そんな中薩長は(薩摩はそもそも開国よりだが)地元で外国と戦争してこてんぱんにやられたおかげで、「あぁこれは攘夷なんか無理だ。。開国して力をつけないと。」と過激な攘夷思想がなくなっていき、現政権(幕府)を倒して新しい国づくりが必要だと考えるようになっていく。
現政権(幕府)は列強諸国から約束どおり開港しろと迫られ、朝廷の許しを得るまで待ってくれというのももう限界だということで朝廷側と話し合い、朝廷側もさすがに今更約束を反故にするのは無理かと折れて、ついに開港の勅許を得ることができた。これで、ここまで「幕府が勝手に開国してけしからん」となっていたものが、朝廷の許しが正式に得られ、国策としての開国となった訳だ。
一方、薩摩と長州は、中岡慎太郎や坂本龍馬の手引きで同盟を結び、新しい国づくりのため、倒幕の動きを見せ始める。武力を背景にしたクーデターを画策していくことになっていく。
結局のところ明治維新っていうのは、尊王攘夷運動が……みたいな話というよりは、外国と喧嘩して外国の力を思い知った薩長が「もう幕府には任せておけない」と、幕藩体制を潰すと共に、武家が力を持つ封建制度の崩壊を狙って起こした暴力クーデターだったというところか。
要するに慶応元年のこの時、日本の国策は一つになったんです。ですから本来ならここで倒幕などといって国内戦争なんかせず、同じ方向に向いて動くべきだったのです。でも遅すぎたのですね。…(略)…もはや幕府の権威も財力も、したがって実力も失われ、頼るより邪魔であり、新しい国づくりにはこれを倒したほうがいいという方向にまとまりつつある時に、はじめて朝廷が勅許を出したというわけです。
幕末史 /半藤一利 第六章 皇国の御為に砕身尽力
正直なところやり方を見ると、どうしても薩長はズルイように感じてしまう。坂本龍馬のいわゆる船中八策を受けて、徳川慶喜が大政奉還をしようとしていたまさにその時、薩長同盟側は策略的に錦の御旗を用意して、官軍としての大義名分を持って武力クーデターを行動に移そうとしていた。
いろいろな議論があるようだが、天皇が積極的に「お前ら(薩長)が官軍だ。あいつら(幕府側)を討て」という勅命を出した訳ではなくて、薩長の策略(政治力)で天皇の許可を取り付けたということのようだ。
幕府側にも十分に優秀な人材はいたし、大政奉還してこれからはみんなで一緒に(ていうとすごく稚拙だけど)新しい日本を作っていくこともできたはずなんだけど、、まあ一気に近代国家を作り上げるためには激震が必要だったということだろうか。少なくとも、幕末の先人たちは今の我々が生きる日本を作るために、自分の信念を懸けてそれぞれが戦ったんだということは間違いないだろうと思う。
結局正義はどちらにあるのか?と考えると答えは出ないし、まあ答えを出す必要もないのかもしれない。ま、ドフラミンゴさんが言うことがやっぱり正しいのかもしれない。
正義は勝つって!?そりゃあそうだろ
勝者だけが正義だ!!!!
ONE PIECE/尾田栄一郎 第57巻556話
果たしてファクトはどこに?
ある出来事の真実は、伝え方によって大きく変わってしまう。当事者のどちら側の意見に寄ったものかによって、受ける印象はまったく違うものになるだろう。幕末の出来事も薩長側の主張では、天皇の勅命のもとに敵を打ち払い、見事維新を成し遂げたってことだろうけど、賊軍だと言われた方はたまったもんじゃないだろう。
そんな事を考えていると、「フェイクニュース」って言葉をここ数年よく聞くようになったなと思う。嘘を報道したり、SNSで発信されたりするケースは非道い話だが、そうじゃなくても印象操作的な意味でのフェイクニュースは山ほどあるだろう。
一視点的な報道や、用意された結論に沿う意見だけが流れる街頭インタビュー。芸能人の不倫ニュースだって、不倫した側の人をみんなで寄ってたかって怪しからんって言うんだけど、めちゃくちゃにモラハラされてたとか、、そりゃ不倫もするわみたいな状況だったかもしれないじゃないか。まあもちろんただのクソ不倫だったかもしれないんだけど。
不倫の例えはショボい話ではあったが、とにかく、印象だけで語るのは危険だし、「そうじゃないかもしれないぞ」と自分の気持ちを中立なところに置いておくのは非常に重要なことなんじゃないかと思う。
とはいえ、他人の言説を信用するしか仕方がないことは山ほどある(というか自分の力でしっかり判断できる事象の方が少ないだろう)から、少しでも自分軸で判断する力が付けられるように、これまで以上にいろんな人のいろんな分野の本を読み漁っていこうと思う今日でした。